ウォーリーしか見つけられない

保育園の時から小学生くらいまで、地元の小さなピアノ教室に通っていました。
待ち時間には専ら、先生の大きくてきれいなお家にあった、少女向けの怖い話の本や、ウォーリーを熱心によんでいました。
成長しても、相変わらず音楽に携わっていますし、それこそ取り憑かれているんじゃないかというくらい毎日怖い話を読みあさっていますし、先日ウォーリーの新版を手に入れて早速興じていますし、割りとこの時分の経験が原体験になっているような気がします。


今、ウォーリーやその仲間達を探してみると、その設定や造形には相変わらずわくわくするんですが、昔と違って、まあすぐ見つかっちゃうんですよねえ。曲がりなりにも頭って成長してるんだなあと、ちょっと感心してしまいました笑


でも、ふと思いました。
子供の頃は、ウォーリーが見つかるまで、その周りの生き生きと描かれたキャラクター達や国々に目をキラキラさせて、想像力を夢一杯膨らませていました。
一方で、今は、いかに効率よくウォーリーを見つけるかを考えて、周りの素晴らしさに目を瞑ってしまっているのですよね。だから、ウォーリーを見つけても、いまいち子供の頃のような感動はない。


これって、本当に成長なのかなあ。
合理的に生きるという意味ではそうなのかもしれないけど、私は、もしかしたら何か大切なものを失ってしまいつつあるのかもしれない。ウォーリーだけじゃない、目に見えない、大切なもの。


ここまで考えたところで、ちょっと苦い思い出が蘇ってきました。
小学生の頃、毎年開かれる音楽会では、必ずピアノ伴奏の座を勝ち取っていました。
私が6年生の年、ピアノ伴奏者を選考するとき、私の他に2人が選考に残っていたのですが、私達に先生から言葉が向けられました。たぶん、何気ない一言だったんでしょうが、
「Aは優しくて、Bは軽やかで、お前は…もう、な、」
と、とりあえず凄い、といった感じで、言葉が出てきませんでした。


結局、ピアノ伴奏者には選ばれたのですが、当時の私はこれを聞いてひどくショックを受けました。
私の音を形容する言葉が出てこない。私の音は、聴衆にとって何だ?何でもない。どれだけうまく弾けたって、何も伝わらなかったらしょうがない。
他の2人は、何かを残してるじゃないか。


それから、何となく、ピアノから遠ざかってしまいました。
でも、今はまた、オーケストラを通じて音楽と触れ合えていて、音程の少ない打楽器を担当していても(むしろだからこそ)、「後ろから見守ってくれてるような、力強くも温かい安心する音」、と、私が醸しだす音色として感じてくださる方がたくさんいらっしゃいます。
それは目に見えないけど、得難い、とても大切なもの。


子供の頃は、自分では表現できなくて、絵本の中でしか見つけられなかったそれを、せっかく手に入れたのに、今度は絵本の中にすら見つけられなくなって、ただの色褪せた思い出にしてしまうところだった…危なかった。
音楽に限らず、素晴らしいものには素直に素晴らしいと思うこと、それをみんなに伝えること、そういうことを忘れてはいけない、ですね。
こういう世界だと、気をゆるめると見失ってしまいがちなので、大事に大事にしていこうと思います。
押入れの奥にしまってある絵本みたいに。